observer nを見てきました ~偶有性のはなし。

YCAMレポふたつめです。今回はこれ

scopic measure #14
Goh Uozumi新作インスタレーション展「observer n」

outline
この作品は異なる次元の観測者たちによって構成される. 主に, 局所的な観測者であるfeeder-device(以下 feeder)と, それらをネットワーク化することで生まれる総体的な観測者, そして体験者である.
feederは, モビールの様に空間に展開され, 他とcord(彼らにとっての外部環境)でリング状に繋がっている. 内部に持つモーターにより, 物理的にcordを取り込み, 隣のfeederへと送っていく. cordの白黒を 0,1 として読み込み, 自身の内部状態を遷移させる. 内部状態と直結したモーターは, 回転や振動(あるいは音)として, リアルタイムな反応を示す.
また, feeder同士は無線でネットワーク化し, より上位の観測者を生成する. それは個別の観測者のルールを再決定し, 単なる反応の繰り返しを, 組織化していくものである.
やがてfeederは自律性を獲得し, "振る舞い"という新たな表現が成立する.
展示では, 個別・総体ともに, 物理的・概念的な両構造を提示する. 物理的構造はfeeder(*n)とcordによるリングネットワークとしてモビールの様に, 概念的構造はfeederを格納する移動ケースに組み込まれたディスプレイで可視化される.
体験者は, それら計算によって成立する対象間を行き来することで, データの離散的な存在である「observer n」を知覚するであろう.

http://gohuozumi.com/projects/observer_n/より引用)

このインスタレーションは4つの段階から成っているそうです。
1層目:白と黒のコードを読みとる

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2層目:光のパターンがいろいろと変わる、読みとる

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3層目:画像イメージが生成される
4層目:音が出る

それぞれの層で機械が仕事をしているわけなんだけれども、決して独立しているのではなく、それぞれ前の層で行われたプロセスを請けて活動しているわけです。つまり読みとられたコードは信号に変えられて次のパターン生成に影響を及ぼし、次にその光のパターンを読みとる。そしたらそのパターンが画像として現れ、最後に画像と連動して音が出る。それぞれの層が独立してひとつの役割をこなしているわけだけれども、実はすべてリンクしているんですよというわけです。例えるところでいえば、人間の身体みたいなものかな。胃とか小腸とか腎臓とか、それぞれ役割はあるけれども個別に自由に動き回っているわけではない。かならず前のプロセスを請けている。それの一連の流れを空間全体が自律的な「振る舞い」を生みだしていると呼ぶことになるのでしょう。

ここまで話を聞いても、技術的な面にまったく疎いわたしにとっては「なんか動かして無線とばして情報伝えとんねんな」としか思わないんですが(ほんとうに失礼)おもしろいのはここからです。なんとね、その、それぞれの層で情報を読みとって伝えるというプロセスがあるじゃないですか。それがね、受信する側は発信する側の情報をそっくりそのまま受け取るんじゃないんですって!人間でいうところの「話半分」みたいな状態、伝言ゲームでいうところの修飾語とかてにをは飛ばして受け取っちゃうみたいなことをするんですって。機械がだよ?話半分って!!このお話を聞いたときはかなり衝撃的でした。だって普通の機械ってさ、パソコンとかもそうですけど、こうやって文章打ってるときにキーボードが「ここは読みとらなくていいや」ってふんぞりかえったら困るでしょう。必要な作業ができないじゃないですか。だけど、このインスタレーションではそれぞれの層の間でそういう「話半分」を意図的に行っている。自分の仕事はきっちりしてます、けども、相手の話は話半分。それで成り立っちゃってるんだ…という驚き。

そのときに、ふしぎとこのインスタレーションはすごく居心地がいいなあと感じる理由がなんとなしわかった気がしました。この空間って、なんかよーわからんコードみたいなのいっぱいぶらさがっとるし、うぃんうぃんがちゃがちゃきーんと音がするしなんやねんと思うけど、ふしぎと嫌じゃないんだよな。なんか落ち着く。その原因がそれぞれの層の間で起きる「話半分」というあいまいなコミュニケーションにあるのかなあとふと思いました。あいまいなままで、ぼんやりとした情報で、ゆるやかに伝えて、そうしてものごとがなんとなし円滑にすすんでいく。そういう有り様をここにみた気がしました。1から10まで着実に伝えあって(ホウレンソウいうやつですか)きっちきちにプロジェクトを遂行するのはそりゃそれで大事なことです。とても。けれども勘違いとか意思の疎通がとれないところから生まれるなにかすてきなものもあって。だからなんというのかな、どっちともとれるんだけどね。発信者はきっちりやってるのに受け取り手がぼんやりしちょってから!という言い分もあるでしょう。だけど、わたしは、きっちり受け取らないままなんとなしゆるやかにつながっていく、そういう態度を受容しているこの空間を、ああ、なんかとてもいいなあ、と思ったのです。いろんなものと、環境と、ちょっとずつ影響し合いながら、ゆるやかにプロセスを辿っていくこの機械さんたちがとてもいとおしい存在のように思えました。

ふだんはコミュニケーションの根幹はやっぱり受け取り手の態度にあるとかなんとか言ってますけど、もろに逆ですよね、これは。だって、聞く人がちゃんと聞いてないんですから。うーん。これがもし人の会話でこういうプロセスが行われていたら(話半分のまま他の人に伝えて影響及ぼしちゃう、ような、わからん。よう想像つかん、ごめんなさい。)相当気持ち悪いなって違和感覚えるんでしょうけど、やはりこれはアートの成せる業だよなあ。勘違いとか偶然から生まれる創造性。わたしの最近お気に入りの言葉でいうと「偶有性」というのかな。たまたま話半分に受け取ったパターンがすばらしく美しいイメージを生みだして、またそれが環境に作用して、ひとつの有機体としての振る舞いをみせる。なんかすてきだなー、ほんと。と、あの空間で小一時間、ナビの方とおしゃべりしながら考えたことでした。ありがとうございました。

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