【お知らせ】macでゆるTED 2014

イベントの告知ですー!
今年もやらせていただくことになりました。

macでゆるTED 2014


本年度YCAMを卒業するサポスタメンバーが、アートに関係あることないこと、自分の好きな分野について語ります!
おいしいごはんを囲みながら、わいわいと楽しい会にしたいと思っています。
どなたでも、ぜひお気軽にお越しください。

日時
2月19日 
16:30〜「さらば方舟」上映
19:00〜 発表(2時間程度予定)
〜24:00

場所 
mac (前町アートセンター)地図
ブログ

発表者 
○とよたさん
○ふじわらさん
寺山修司監督映画における脱却への試み」
「家」の崩壊と「個人」のアイデンティティの獲得という視点における寺山監督長編映画の分析と、1960年〜1984年の映画(ATG映画等)が扱い続けた「家」問題と「形式」からの脱却について。

○たかいらさん
「物理学において私が理解していることについて」
物理の世界は私のような凡人にとってとてつもなく広くて険しい。その中で私が理解できているほんの一握りの話、磁性だとかスピンの話題を中心に、物理の理論をやっていて面白かったこと等をお伝え出来ればと考えています。

参加費
一品料理+500円、持ち込みなしの方は1000円
発表を聞くだけの方は無料です


macに来たことのある人もない人もどうぞ気軽においでください!

「プロジェクトFUKUSHIMA!」~福島に行きたい。

ライフ&イートクラブさん主催の上映会にお邪魔してきました。
映画の内容もさることながら、多くの人と震災の話、映像の話…いろんなお話ができてとても貴重な経験になりました。
みなさま、ほんとうにお世話になりました。

そういうわけで、上映会から帰ってきたときに急いでツイートしたものを載っけてみます。勢いだけなので、とても読みづらいと思います。



@usaaaakoうさこ 11/24
まず映画の感想。藤井光さんの「プロジェクトFUKUSHIMA!」というドキュメンタリー映画を見てきました。 pj-fukushima.jp/jp/


何かを伝えたい、そういうふうな制作者の意図はまったく感じませんでした。一歩ひいた目線で作られたドキュメンタリー。淡々と映像が流れ、たまーに音楽がつく。それでも90分間食い入るようにスクリーンを見つめたのは、そこで行われることそのものがものすごいエネルギーを持っていたから。



ものすごいエネルギーの源はやっぱり、震災であり原発事故であり。そういうことを実際問題として引き受けながら生きている人たちをこういう形で見て、とてつもない距離を感じた。ほんとにここが日本なのか、同じ日本人なのか?



この感情は震災以来ずっと抱いていて、同じ日本に生きていながら呑気に生きている自分に対しての罪悪感という形で現れていた。だけど、この映画を見て感じた「日本なのか?」は少し違う。先の感情はおそらく「被災してかわいそう」という心理がはたらいていたと思う。今回はそうじゃない。



原発を作ったのが悪いとか、管理がどうこうとかいう議論はさておき、事故は起きてしまったのだ。その現実を生きている人がいて、それはもう必死で、必死に。そうして福島に生きる人たちは、十字架を背負い、ある種の連帯感を持っている。ちがう、確実に、この人たちはわたしと、違う世界に生きている。



差別とかそういうことではありません。ただ、そういうかたちで距離を感じてしまったということです。そこで、わたしは思ったのです。福島に行ってみたい、と。そこに生きる人たちがいったいどういう生活をしているのか、どんな思いでおられるのか。



見て聞いて体験して、深く刻みこまなければならない。切実にそう感じました。なぜ、という論理では説明できないけれど、これはきちんと見なければならないことだろうと強く思ったのです。


当たり前だけど、福島にはまだたくさんの人が暮らしていている。そのことすら、私たちは忘れそうになる。悲劇の地のように思えるかもしれないけど、そこには誰がいて、自分と同じようにごはんを食べてる。


いまもテレビでは福島やさまざまな被災地のことを伝えているけれど、それらのドキュメンタリーより数百倍わたしの心に刺さってきた、そんな映画でした。

observer nを見てきました ~偶有性のはなし。

YCAMレポふたつめです。今回はこれ

scopic measure #14
Goh Uozumi新作インスタレーション展「observer n」

outline
この作品は異なる次元の観測者たちによって構成される. 主に, 局所的な観測者であるfeeder-device(以下 feeder)と, それらをネットワーク化することで生まれる総体的な観測者, そして体験者である.
feederは, モビールの様に空間に展開され, 他とcord(彼らにとっての外部環境)でリング状に繋がっている. 内部に持つモーターにより, 物理的にcordを取り込み, 隣のfeederへと送っていく. cordの白黒を 0,1 として読み込み, 自身の内部状態を遷移させる. 内部状態と直結したモーターは, 回転や振動(あるいは音)として, リアルタイムな反応を示す.
また, feeder同士は無線でネットワーク化し, より上位の観測者を生成する. それは個別の観測者のルールを再決定し, 単なる反応の繰り返しを, 組織化していくものである.
やがてfeederは自律性を獲得し, "振る舞い"という新たな表現が成立する.
展示では, 個別・総体ともに, 物理的・概念的な両構造を提示する. 物理的構造はfeeder(*n)とcordによるリングネットワークとしてモビールの様に, 概念的構造はfeederを格納する移動ケースに組み込まれたディスプレイで可視化される.
体験者は, それら計算によって成立する対象間を行き来することで, データの離散的な存在である「observer n」を知覚するであろう.

http://gohuozumi.com/projects/observer_n/より引用)

このインスタレーションは4つの段階から成っているそうです。
1層目:白と黒のコードを読みとる

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2層目:光のパターンがいろいろと変わる、読みとる

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3層目:画像イメージが生成される
4層目:音が出る

それぞれの層で機械が仕事をしているわけなんだけれども、決して独立しているのではなく、それぞれ前の層で行われたプロセスを請けて活動しているわけです。つまり読みとられたコードは信号に変えられて次のパターン生成に影響を及ぼし、次にその光のパターンを読みとる。そしたらそのパターンが画像として現れ、最後に画像と連動して音が出る。それぞれの層が独立してひとつの役割をこなしているわけだけれども、実はすべてリンクしているんですよというわけです。例えるところでいえば、人間の身体みたいなものかな。胃とか小腸とか腎臓とか、それぞれ役割はあるけれども個別に自由に動き回っているわけではない。かならず前のプロセスを請けている。それの一連の流れを空間全体が自律的な「振る舞い」を生みだしていると呼ぶことになるのでしょう。

ここまで話を聞いても、技術的な面にまったく疎いわたしにとっては「なんか動かして無線とばして情報伝えとんねんな」としか思わないんですが(ほんとうに失礼)おもしろいのはここからです。なんとね、その、それぞれの層で情報を読みとって伝えるというプロセスがあるじゃないですか。それがね、受信する側は発信する側の情報をそっくりそのまま受け取るんじゃないんですって!人間でいうところの「話半分」みたいな状態、伝言ゲームでいうところの修飾語とかてにをは飛ばして受け取っちゃうみたいなことをするんですって。機械がだよ?話半分って!!このお話を聞いたときはかなり衝撃的でした。だって普通の機械ってさ、パソコンとかもそうですけど、こうやって文章打ってるときにキーボードが「ここは読みとらなくていいや」ってふんぞりかえったら困るでしょう。必要な作業ができないじゃないですか。だけど、このインスタレーションではそれぞれの層の間でそういう「話半分」を意図的に行っている。自分の仕事はきっちりしてます、けども、相手の話は話半分。それで成り立っちゃってるんだ…という驚き。

そのときに、ふしぎとこのインスタレーションはすごく居心地がいいなあと感じる理由がなんとなしわかった気がしました。この空間って、なんかよーわからんコードみたいなのいっぱいぶらさがっとるし、うぃんうぃんがちゃがちゃきーんと音がするしなんやねんと思うけど、ふしぎと嫌じゃないんだよな。なんか落ち着く。その原因がそれぞれの層の間で起きる「話半分」というあいまいなコミュニケーションにあるのかなあとふと思いました。あいまいなままで、ぼんやりとした情報で、ゆるやかに伝えて、そうしてものごとがなんとなし円滑にすすんでいく。そういう有り様をここにみた気がしました。1から10まで着実に伝えあって(ホウレンソウいうやつですか)きっちきちにプロジェクトを遂行するのはそりゃそれで大事なことです。とても。けれども勘違いとか意思の疎通がとれないところから生まれるなにかすてきなものもあって。だからなんというのかな、どっちともとれるんだけどね。発信者はきっちりやってるのに受け取り手がぼんやりしちょってから!という言い分もあるでしょう。だけど、わたしは、きっちり受け取らないままなんとなしゆるやかにつながっていく、そういう態度を受容しているこの空間を、ああ、なんかとてもいいなあ、と思ったのです。いろんなものと、環境と、ちょっとずつ影響し合いながら、ゆるやかにプロセスを辿っていくこの機械さんたちがとてもいとおしい存在のように思えました。

ふだんはコミュニケーションの根幹はやっぱり受け取り手の態度にあるとかなんとか言ってますけど、もろに逆ですよね、これは。だって、聞く人がちゃんと聞いてないんですから。うーん。これがもし人の会話でこういうプロセスが行われていたら(話半分のまま他の人に伝えて影響及ぼしちゃう、ような、わからん。よう想像つかん、ごめんなさい。)相当気持ち悪いなって違和感覚えるんでしょうけど、やはりこれはアートの成せる業だよなあ。勘違いとか偶然から生まれる創造性。わたしの最近お気に入りの言葉でいうと「偶有性」というのかな。たまたま話半分に受け取ったパターンがすばらしく美しいイメージを生みだして、またそれが環境に作用して、ひとつの有機体としての振る舞いをみせる。なんかすてきだなー、ほんと。と、あの空間で小一時間、ナビの方とおしゃべりしながら考えたことでした。ありがとうございました。

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目は口ほどにものを言う(まじで)

YCAM行ったよ。これをしに。

 

「視線のモルフォロジー」

視線を通じて世界と繋がる。― 視線入力技術 LabACT vol.2 「Eye-Tracking Informatics~視線のモルフォロジー」

 

ものすごく単純に言えば、視線の動きで空間を移動してみよう!

そんな感じのインスタレーション作品です。

宇宙旅行にしゅっぱつ。びゅんびゅん。

 

 

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本作は、2 人の体験者が、3 次元仮想空間内に可視化された自身の視線の動きを通じて、コミュニケーションや空間内のナビゲーションをおこなっていくという、三上の90 年代の代表作のひとつを、最新の技術動向を反映しYCAM で再制作したものです。ビジュアルやサウンド、ハードウェアなどあらゆる面で、より精緻かつダイナミックに生まれ変わった本作を通じて、視線によるコミュニケーションや、自らの視線の軌跡が作り出すかつてない造形空間を楽しむことができます。 

 (YCAMホームページより引用)

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詳しく言うとこういうことになります。はい。

 

 

大きなスクリーンの中を、視線の動きだけで飛び回れてしまうのです。

どう動くかによって音や振動も変わってきて、アトラクションみたいでほんとに楽しい!

作品の終わりには、今まで辿って来た軌跡が映し出されるのだけど、これがまた人によっていろいろでおもしろい。

ぐるぐる螺旋形を描く人、上下運動が激しい人、直線的な動きの人。

いろいろ遊んでやるぞー!!っていう意気込みがある人ほどぐっちゃぐちゃになるのかなあ、という主観。

 

案外、無意識

この作品を体験するのにだいたい3分かかるんですが

飽きっぽいわたしは3分ずっとあれやこれや遊んでいられず

たまにぼーーーっと一点を見つめていました。

でもそのぼーーーーっとしていた時間もちゃんと軌跡として残ってるんですよねえ。

うかうかしてたら全部絡めとられて記録されちゃいます。

でも、そのぼーっとしてたときの軌跡って、決してまっすぐで平坦に描かれるわけじゃないんですよ。

無意識のうちにぶれてたりしてるんです。

 

すごく重要な個人情報なんじゃないの

意識的な視線の動きも、無意識的な視線の動きもぜんぶ記録されて可視化されて気付くことがあります。

 

「視線を可視化する」

インスタレーションとしては、とてもたのしい。

 

でもこれがひとたび社会に出ると

自分がいつどこでなにを見てるか全部ばれちゃうんです。

 

例えばグラビアアイドルの写真

どこ見てるかばれたら恥ずかしくないですか

 

例えば道ですれちがったかっこいいお兄さん

めっちゃ顔見てたってばれたら恥ずかしくないですか

 

 

っていうごくごく個人的な問題からはじまり(結構たいへんな社会問題ですけど)

 

 

この建物のどこをみんなはよく見てるのかな?

このへんが多いのかあ、それだったらうちの会社はここに広告出しましょう。

 

なんてのは、おそらくマーケティングに導入されていることでしょう。

 

意識的でも無意識的でも、あなたが「見た」ことにかわりはないのです。

 

 

なんて、挙げていったらキリがないのですが、視線っていうのは言葉より表情より触れることよりダイレクトにメッセージを発するわけですね。

電話の盗聴よりインターネットの履歴を見られるより、視線を盗まれる方がよっぽど怖いわあ。

 

 

「視線で対話する」っていうキーワードもおもしろそうだったけど、ちょっとまとまりそうにないのでおいておきます。コミュニケーション論のときに引っ張り出せるといいな。