2017年2月 熊本旅覚え書き

熊本とわたし

熊本は大学3年生のとき、学科の研修で熊本城に行ったきりである。熊本城を去るときにすぐ近くに百貨店やショッピングビルがあって、そのギャップに驚いたことを覚えている。当時はお城の地下通路が工事中だったような気がする。工事が終わったら見に行きたい、と思っていたら4月の地震である。今回見た熊本城は城壁が防音シートでものものしく覆われ、屋根瓦はもろもろとはがれていた。報道で目にしたそれも酷くショッキングだったが、実物を見ると言葉にならない。街の真ん中に堂々とそびえ立って移ろいを見守っていたランドマークが崩れてしまった。地元の方の心情は想像するに余りある。だけど、必ず修復される。今日よりも明日、今年よりも来年。かならず良くなる。そうしたらあのかっこいい石垣をもう一度見に行こう。

新幹線つばめ

博多駅を出たのは夕刻。初めて新幹線「つばめ」に乗った。座席も広くて、デッキには絵も飾ってあってなんだか素敵だ。ちょうど西日が差し込んできてまぶしかったのでブラインドを下げると、なんどこれがカーテンではなくすだれだった。容赦なく西日は射してきた。

熊本市現代美術館

すっかり日が落ちた頃に熊本市現代美術館に着いた。外観をまったく調べずに来たので、最初は迷った。ショッピングビルの立ち並ぶ間にあっておよそミュージアム然としない。ギャラリーのような雰囲気、かと思いきや正面玄関まで来てみると「市民センター」のような雰囲気を醸し出している。
いわゆるホワイトキューブのような威圧感はなく、深い木目調の、昔の学校のような静かで落ち着いた空間である。ちょうど今日までだった企画展は撤収が始まっていて、他のテーマ展を見た。高嶺格の「God Bless in America」というビデオ作品がとても気に入って、ループが終わってもしばらくぼおっと眺めていた。延々と破壊と再生が繰り返される中央のオブジェは、夏に見たブルース・ビックフォードのアニメーションを思い起こさせた。はっきり好き嫌い分かれる描写に間違いはないのだが、私はとても好きだった。と、いうか慣れてしまったのだろうかと思う。動き続けている、変化し続けている、その止まらなくハイな描写に釘付けになってしまっていた。また、ライブラリーが充実していて、普段あまりお目にかかることのない海外のアートフェアやアート事情に関する本があるのは嬉しかった。ロシア語なんて、韓国語なんて読めないのに、パラパラとめくるだけで楽しかった。1日中居ても足りないくらい。美術、工芸、デザインや食文化、教育まで多彩なジャンルの本が無料で心ゆくまで読めるなんて、熊本の人はうらやましいな。そういえば、日曜日の夕刻にも関わらず市民の人が結構たくさんいて、どうやらボランティアの方のピアノコンサートを楽しみに来ていたらしい。(生憎中止のアナウンスがあったが)キッズコーナーもあって、木のおもちゃや絵本、広々と遊べるスペースが整備されていて、遊んでいる親子連れもいた。市民センターの一角にギャラリーが備え付けられているような、なんとも開放的なつくりだなあと改めて感じた。

熊本の夜

大学時代の友人が「馬刺しと焼酎があれば最高」と言った私のオーダーに応えてくれて、現代美術館からほど近いお店に連れて行ってくれた。数年ぶりの再会に話が弾んで、遠慮して一切れ残していた馬刺しが少しかぴかぴになってしまった。ごめんなさい。からしれんこんを人生で初めて食べたのだけれど、おいしさに驚いた。まあ驚いた。熊本のスーパーでからしれんこんは、かまぼこやちくわのコーナーに並んでいるらしく、さつまあげ・からしれんこんと焼酎というのがナイスな組み合わせらしい。ああ、想像しただけでも美味しい。たまらない!そして、からしれんこんの作り方があまりに豪快なことを語ってくれた。適当な長さに切ったれんこんの穴に、素手で(!)とにかくからしを詰め込みまくるらしい。とにかく詰める、詰める。幼い頃は、手がどれだけひりひりすることかと、とても心配だったらしい。熊本市民の彼女が語るに、熊本は何かと大雑把で豪快、ということらしかった。からしれんこんがその代表。
それから、地下にある昔からあるような喫茶店にも案内してくれた。若い人が多くて、なんだかいいなと思った。お茶を一杯、のつもりだったのだが案外時間をくってしまい、なんとお互い終電を逃してしまった。

水前寺公園

ホテルの朝食を食べ、さて今日は何をしようと考えた。熊本駅を出る新幹線は14:30。それまでに、昨夜友人に教えてもらったふたつのミッションをクリアしないといけない。「タイピーエン」を食べ「橙書店」に行く。ところが橙書店は11:30からの営業で、かなり時間がある。こういうときはたいていその街の図書館を見に行って時間をつぶしたりするのだけど、あいにく市立図書館は休館。調べてみると、県立図書館と文学館が水前寺公園の近くにあるらしかったので、向かってみることにした。そういえば以前に水前寺公園を誰かにすすめられた気がしていたし、ちょうどいいこの機会にと、バスに飛び乗った。
バス停から案内に沿って3分ほど歩くと、水前寺公園の入り口がある。小さなお土産屋さん通りを抜けようとしたそのとき、着物屋さんの中に街中で3秒に1回は視界に入ってきた彼がいる。くまモンだ。くまモンの本物だ。おそらくテレビの取材と思われるくまモンを、私は目撃した。朝10:30、誰もいないおみやげ屋さん通りで、ひとり、くまモンを見かけた優越感に浸る。水前寺公園の受付門をくぐると、これまで街中にいたとは思えない、広大で、澄み渡った風景が目の前にひろがった。ここからの1時間はほんとうに、ほんとうに、いま思えば、これまで降り積もったどうでもいいことしんどいことを一気に押し流してしまったような、そんなやすらぎと清々しさをからだいっぱいに受けていた。梅も美しかった。池にたくさんいた合鴨も本当にかわいらしかったし、私は鴨があんなに飛ぶなんて、知らなかった。お散歩中の赤ちゃんとお母さんがいて、ああ、この子にとっては、小さい頃からこの風景が当たり前になるのだな、とうらやましくなった。贅沢だなあ。と、ちょうど池の周りを一周したところで「くまモンだ!」叫び声を耳にする。先ほどまで着物屋さんの中にいたくまモンが、公園の中にやってきたのだ。あっという間に観光客に取り囲まれ、写真を撮ろうにも自撮りでフレームインしようとする人々に阻まれて、うまく撮れなかった。少し残念。そして、いきなり団子を食べなかったのは、やはりもっと残念であった。

2016年の手帳はEDITとほぼ日WEEKSにするよ

1ヶ月にわたり頭を悩ませてきた、来年の手帳問題についに決着がつきました。

まず、これまでの手帳遍歴をふりかえります。

2014年の手帳

- ほぼ日手帳カズン(ピンク)

修士2年だったため、主に研究ノートとして利用していました。
ほぼ日サイトで、大学院生ばーばらさんの使い方を見たことがきっかけで「わたしもこんなふうにカズンを使い倒して、いい研究がしたい!」と意気込んでいました。が、その野望はあっけなく崩れ落ちました。

ピンクにしたのは、いちばん自分らしくない色で、でも華やかな色だからだったと記憶しています。
本当はジッパーズも使ってみたかったのですが、Loft店頭で見たときに「でかっ…」とひいてしまいました。
さらに、研究ノートということで、家と学校との間で持ち歩くのが結構しんどかったです。

でも「A5版」の度量のひろさにすっかり惚れ込み、大きいものはいいものだと実感しました。

2015年の手帳

- ほぼ日手帳カズン(オレンジ)

社会人1年目、仕事用に使っています。
毎日覚えること、考えることもたくさんある仕事だなあ考えたときに
やはり1ページの面積が大きいカズンを選択したのでした。
おかげで、日々のTodoやお客さんとの打ち合わせ内容、イベントや制作のアイデアなど
ごった煮の楽しいノートになっています。
あまり自分の内面のつぶやきは書いていないのですが、ページをめくると思い出すことがたくさんあります。
(ちなみに、いちばん多忙だった時期は白紙で埋め尽くされています)

手帳の置き場所ですが、前年の反省を活かして会社置きにしています。

困っているところは、やはり重いところ。
残念ながら出張にはとても連れていけません。

また、週間がまったくと言っていいほど活用できていません…
というのも、主なスケジュール管理はGoogleカレンダーで共有していて
1日のうちの細かい予定をわざわざ週間に写すのが手間なんですね。
変更だってままあるし。

というわけで、週間はほとんど白紙です。

- ほぼ日手帳WEEKS(ホワイト)

仕事とプライベートを分けたい、ということで2冊持ちをはじめました。
はじめてのWEEKSです。
ちっちゃいかな?と思ってたけど、ぎゅっと書けて密度が濃くなるところが気に入っています。
(と、いいつつわりとすかすかですが)
主に家計簿がわり、体調管理などの日々の簡単なメモをしています。

だいたい1週間に1度ほど、食材のまとめ買いをするので買ってきたもので何が作れるかな〜と考えたり
見た映画や本の感想、チケットを貼るなど、ライフログといった感じです。

さて、2016年はどうしよう?

10ヶ月弱、2冊の手帳を使って感じたことを挙げてみたいと思います。

- 2冊づかいに無理はないか?

まったく無理はありません。
びっっしり書き込んで、使い倒しているわけではないのですが…
仕事とプライベート、それぞれの手帳がわたしの思考を助けてくれています。

そのため、2冊づかいは続行します。

- プライベートはほぼ日WEEKSホワイトに

プライベートの手帳は、WEEKSのホワイトを続投します。
机にぽんと置いていても邪魔にならないサイズ感と、ふにゃっとした感じに愛着が湧いています。
なんなら、毎年ホワイトを買い続けても良いなと思っています。
それにしても、どうして相変わらずWEEKSは硬い表紙のものが多いのでしょう。ううむ。

- 仕事用の手帳を見直したい

わたしが仕事用の手帳に求めることは、次のことです。

・カバーは明るく、本体の中身はシンプルなものに
・できるだけひろく1日1ページがほしい
・週間は不要
・あまり重くないもの
・方眼が好き
・プロジェクト管理がしたい

週間が不要、重いものは困るということでカズンは外れます。
でも1日1ページは欲しいので、オリジナルを検討しました。

ところが、びっくりするぐらい2016年のオリジナルカバーにときめかないのです…
どれもピンとこない。
お財布の事情を鑑みなければこぎん刺しはとても魅力的だし、coohenもかわいいと思うのですが。www.1101.com

さらに、前年12月の1日1/2ページがなくなって、月初めに横罫のページが挿入されるということを知り…
「横罫があるなら、ほぼ日手帳の意味がないのでは?」
と思い至り、おもいきって別の手帳を探していました。

- 仕事用はEDITにしたい

そんなときに、友人が「何年も使っている」と教えてくれたのがEDITでした。www.edit-marks.jp

手帳好きなので、EDITの存在は以前から知っていましたが、中紙のトモエリバー・カバーのかわいさ・方眼があるという点でほぼ日手帳に勝るものはない!と思っていたのです。

友人が使っているEDITを見せてもらったところ、次のところにひかれました。
・表紙の手触りのよさ
・手に吸い付くような中紙の触り心地
・オリジナル以上カズン未満のちょうどいい大きさ

方眼ではないというのはかなり大きなハンデなのですが、まあドットだし…ぎりぎり大丈夫そう。
このカバーがいい!という熱意もないのに、高級なほぼ日手帳を買うよりは大きさと手触りの気持ちよい、EDITを使ってみようと思っています。

なにより、EDITは近くの文具店で手に取ってみることができるのです。
LOFTは隣県まで行かないとありません)

カバーもほぼ日に匹敵する、それ以上にたくさんの種類と幅広い価格帯から選ぶことができるようになっていて選ぶたのしみがありますね。

ほぼ日のジッパーズのようなカバーも出ているのですが、お値段4,000円ちょっと。これまでほぼ日を使っていたわたしからすれば、とってもお手頃。

2016年モデルの「フィンレンソン」のデザインがかわいいな〜と思っています。(高いけど)www.online-marks.com

お店に行くのが楽しみ。



ちなみに
・プロジェクト管理がしたい については
いくつものプロジェクトが並行してすすむので、進行具合を一覧で見られたらなという気持ちがあったためです。

yPadでガントチャートを組んでみることも考えましたがさすがに3冊も手帳は使えないな…と思いました。www.lifehacker.jp

いまは、EDITの友人に教えてもらったアプリのWunderlistを使っています。結構便利です。


購入しましたら、また報告します。

【お知らせ】macでゆるTED 2014

イベントの告知ですー!
今年もやらせていただくことになりました。

macでゆるTED 2014


本年度YCAMを卒業するサポスタメンバーが、アートに関係あることないこと、自分の好きな分野について語ります!
おいしいごはんを囲みながら、わいわいと楽しい会にしたいと思っています。
どなたでも、ぜひお気軽にお越しください。

日時
2月19日 
16:30〜「さらば方舟」上映
19:00〜 発表(2時間程度予定)
〜24:00

場所 
mac (前町アートセンター)地図
ブログ

発表者 
○とよたさん
○ふじわらさん
寺山修司監督映画における脱却への試み」
「家」の崩壊と「個人」のアイデンティティの獲得という視点における寺山監督長編映画の分析と、1960年〜1984年の映画(ATG映画等)が扱い続けた「家」問題と「形式」からの脱却について。

○たかいらさん
「物理学において私が理解していることについて」
物理の世界は私のような凡人にとってとてつもなく広くて険しい。その中で私が理解できているほんの一握りの話、磁性だとかスピンの話題を中心に、物理の理論をやっていて面白かったこと等をお伝え出来ればと考えています。

参加費
一品料理+500円、持ち込みなしの方は1000円
発表を聞くだけの方は無料です


macに来たことのある人もない人もどうぞ気軽においでください!

冬休み

約1年ぶりのエントリです。筆無精すぎるでしょう。
メモ程度でもいいから書き続けることが大事だなと思っているところです。
どんなにあほらしくても、ばからしくても、書く!

最近の関心について整理

・幼児教育
2013年後期から幼児教育の授業をとっています。
きっかけは、前期に受けた授業のなかで幼児教育についての講義があって、幼児教育が「遊びを通じての指導」を行っていること、「環境を通じて行う教育」であるという考え方に興味を持ったことがひとつ。
そのことがYCAMで行われていたコロガルパビリオンでの仕事とどうつながってくるかな、と思ったことがひとつ。そういうわけで、子どもの遊びにまつわるいろいろについて勉強しています。
授業を受けているのがわたしひとりなもので、毎回文献講読をしてレジュメ作って発表…というのはかなりしんどいけど、毎週新しい発見があってすごくおもしろいです。
ちなみに、読んでいるのはこれです。

子ども学のはじまり

子ども学のはじまり

(単行本はかなりプレミアなご様子)

いま思っているのは、幼児について学ぶっていうのは、人間そのものについて学ぶっていうことなんだなあと、ざっくり。
相手のものの見方と、自分のものの見方があるということがまず前提。
その自分のものの見方から、どれだけ相手を「志向」していけるか。相手を「感じる」ことができるか。
相手を求めたいという欲求こそコミュニケーションの根幹だという持論のもと、いろんなことを考えたり書いたりしている最中に
まさかまったく別分野でこういう思想に出会うと思わなかったなと、結構びびびときてます。
あとは、あそびの中で子どもたちが発達していくっていうのがすごくおもしろくて。
興味関心に応じて柔軟に環境を構成して、活動に夢中になっていくうちにたくさんのことを学ぶ…ってすごく理想的。そして、それを見守る大人の存在。
ワークショップとか、授業には明確なねらいがあって、そこにむかってどうアプローチしていくか、指導者目線から言えば、どうレールに乗っけていくかという思想だからね(おおざっぱに言えば)。真逆なんです。
この本についてはまたいずれ詳しく。

・料理
おいしいものを食べてほしい!
ひとり暮らししてたときからそうなんだけど、副菜が難しいです。
主菜ってお肉どーん!お魚どーん!で済む感じがあるけど
副菜はそれら主菜との兼ね合いもあるし、主菜以上に食材の組み合わせが大事になっている気がする。
味のまとめかたも。
サラダの本を買おうかな〜とも考え中。
それとタイ料理。カレー。

こまったさんのカレーライス (おはなしりょうりきょうしつ (2))

こまったさんのカレーライス (おはなしりょうりきょうしつ (2))

10分で本格タイごはん

10分で本格タイごはん


・メディア
自分が参加させてもらっている、ライブラリーラジオコミッティも「山口から発信する新しい市民メディア」と銘打っているし
メディアアートの創作、展示を行っているYCAMで仕事をさせてもらっているわけだし(10thでLIFE by MEDIAという企画があったし、コロパビも「メディア的な要素」が存在するあそび場なわけで)
そして最近おもしろいなと思った四街道こども記者クラブも「こどもたちがつくるまちのメディア」…
もうメディアメディアてなんやねん。いまいちよくわかりません。
ざっくりと本読んで勉強したいです。どのあたりを読めばよいのだろう。
ご指南いただきたいです。

・子どもにかかわる
主に仕事のはなし
保育園/小学校/中学校/高等学校/高等専門学校/児童館/科学館、美術館…など
関わる場所はほんとうにたくさん考えられて、いったいどうしたいのか自分でもわからない。
場所じゃなくて、自分の心持ち次第でどうにでもなるのかもしれないけどね。
そろそろ決めないといけないのになー
このへんも別にエントリ書いて、考えを洗っていきます。

あと
・コロパビ総括(個人的に)
する。これ年内〆切。
修論がもちろん最優先事項ではありますが、いろいろと楽しくやっていきたいと思います。

「プロジェクトFUKUSHIMA!」~福島に行きたい。

ライフ&イートクラブさん主催の上映会にお邪魔してきました。
映画の内容もさることながら、多くの人と震災の話、映像の話…いろんなお話ができてとても貴重な経験になりました。
みなさま、ほんとうにお世話になりました。

そういうわけで、上映会から帰ってきたときに急いでツイートしたものを載っけてみます。勢いだけなので、とても読みづらいと思います。



@usaaaakoうさこ 11/24
まず映画の感想。藤井光さんの「プロジェクトFUKUSHIMA!」というドキュメンタリー映画を見てきました。 pj-fukushima.jp/jp/


何かを伝えたい、そういうふうな制作者の意図はまったく感じませんでした。一歩ひいた目線で作られたドキュメンタリー。淡々と映像が流れ、たまーに音楽がつく。それでも90分間食い入るようにスクリーンを見つめたのは、そこで行われることそのものがものすごいエネルギーを持っていたから。



ものすごいエネルギーの源はやっぱり、震災であり原発事故であり。そういうことを実際問題として引き受けながら生きている人たちをこういう形で見て、とてつもない距離を感じた。ほんとにここが日本なのか、同じ日本人なのか?



この感情は震災以来ずっと抱いていて、同じ日本に生きていながら呑気に生きている自分に対しての罪悪感という形で現れていた。だけど、この映画を見て感じた「日本なのか?」は少し違う。先の感情はおそらく「被災してかわいそう」という心理がはたらいていたと思う。今回はそうじゃない。



原発を作ったのが悪いとか、管理がどうこうとかいう議論はさておき、事故は起きてしまったのだ。その現実を生きている人がいて、それはもう必死で、必死に。そうして福島に生きる人たちは、十字架を背負い、ある種の連帯感を持っている。ちがう、確実に、この人たちはわたしと、違う世界に生きている。



差別とかそういうことではありません。ただ、そういうかたちで距離を感じてしまったということです。そこで、わたしは思ったのです。福島に行ってみたい、と。そこに生きる人たちがいったいどういう生活をしているのか、どんな思いでおられるのか。



見て聞いて体験して、深く刻みこまなければならない。切実にそう感じました。なぜ、という論理では説明できないけれど、これはきちんと見なければならないことだろうと強く思ったのです。


当たり前だけど、福島にはまだたくさんの人が暮らしていている。そのことすら、私たちは忘れそうになる。悲劇の地のように思えるかもしれないけど、そこには誰がいて、自分と同じようにごはんを食べてる。


いまもテレビでは福島やさまざまな被災地のことを伝えているけれど、それらのドキュメンタリーより数百倍わたしの心に刺さってきた、そんな映画でした。

observer nを見てきました ~偶有性のはなし。

YCAMレポふたつめです。今回はこれ

scopic measure #14
Goh Uozumi新作インスタレーション展「observer n」

outline
この作品は異なる次元の観測者たちによって構成される. 主に, 局所的な観測者であるfeeder-device(以下 feeder)と, それらをネットワーク化することで生まれる総体的な観測者, そして体験者である.
feederは, モビールの様に空間に展開され, 他とcord(彼らにとっての外部環境)でリング状に繋がっている. 内部に持つモーターにより, 物理的にcordを取り込み, 隣のfeederへと送っていく. cordの白黒を 0,1 として読み込み, 自身の内部状態を遷移させる. 内部状態と直結したモーターは, 回転や振動(あるいは音)として, リアルタイムな反応を示す.
また, feeder同士は無線でネットワーク化し, より上位の観測者を生成する. それは個別の観測者のルールを再決定し, 単なる反応の繰り返しを, 組織化していくものである.
やがてfeederは自律性を獲得し, "振る舞い"という新たな表現が成立する.
展示では, 個別・総体ともに, 物理的・概念的な両構造を提示する. 物理的構造はfeeder(*n)とcordによるリングネットワークとしてモビールの様に, 概念的構造はfeederを格納する移動ケースに組み込まれたディスプレイで可視化される.
体験者は, それら計算によって成立する対象間を行き来することで, データの離散的な存在である「observer n」を知覚するであろう.

http://gohuozumi.com/projects/observer_n/より引用)

このインスタレーションは4つの段階から成っているそうです。
1層目:白と黒のコードを読みとる

f:id:sgl_0110:20120913222809j:plain

2層目:光のパターンがいろいろと変わる、読みとる

f:id:sgl_0110:20120913222913j:plain

3層目:画像イメージが生成される
4層目:音が出る

それぞれの層で機械が仕事をしているわけなんだけれども、決して独立しているのではなく、それぞれ前の層で行われたプロセスを請けて活動しているわけです。つまり読みとられたコードは信号に変えられて次のパターン生成に影響を及ぼし、次にその光のパターンを読みとる。そしたらそのパターンが画像として現れ、最後に画像と連動して音が出る。それぞれの層が独立してひとつの役割をこなしているわけだけれども、実はすべてリンクしているんですよというわけです。例えるところでいえば、人間の身体みたいなものかな。胃とか小腸とか腎臓とか、それぞれ役割はあるけれども個別に自由に動き回っているわけではない。かならず前のプロセスを請けている。それの一連の流れを空間全体が自律的な「振る舞い」を生みだしていると呼ぶことになるのでしょう。

ここまで話を聞いても、技術的な面にまったく疎いわたしにとっては「なんか動かして無線とばして情報伝えとんねんな」としか思わないんですが(ほんとうに失礼)おもしろいのはここからです。なんとね、その、それぞれの層で情報を読みとって伝えるというプロセスがあるじゃないですか。それがね、受信する側は発信する側の情報をそっくりそのまま受け取るんじゃないんですって!人間でいうところの「話半分」みたいな状態、伝言ゲームでいうところの修飾語とかてにをは飛ばして受け取っちゃうみたいなことをするんですって。機械がだよ?話半分って!!このお話を聞いたときはかなり衝撃的でした。だって普通の機械ってさ、パソコンとかもそうですけど、こうやって文章打ってるときにキーボードが「ここは読みとらなくていいや」ってふんぞりかえったら困るでしょう。必要な作業ができないじゃないですか。だけど、このインスタレーションではそれぞれの層の間でそういう「話半分」を意図的に行っている。自分の仕事はきっちりしてます、けども、相手の話は話半分。それで成り立っちゃってるんだ…という驚き。

そのときに、ふしぎとこのインスタレーションはすごく居心地がいいなあと感じる理由がなんとなしわかった気がしました。この空間って、なんかよーわからんコードみたいなのいっぱいぶらさがっとるし、うぃんうぃんがちゃがちゃきーんと音がするしなんやねんと思うけど、ふしぎと嫌じゃないんだよな。なんか落ち着く。その原因がそれぞれの層の間で起きる「話半分」というあいまいなコミュニケーションにあるのかなあとふと思いました。あいまいなままで、ぼんやりとした情報で、ゆるやかに伝えて、そうしてものごとがなんとなし円滑にすすんでいく。そういう有り様をここにみた気がしました。1から10まで着実に伝えあって(ホウレンソウいうやつですか)きっちきちにプロジェクトを遂行するのはそりゃそれで大事なことです。とても。けれども勘違いとか意思の疎通がとれないところから生まれるなにかすてきなものもあって。だからなんというのかな、どっちともとれるんだけどね。発信者はきっちりやってるのに受け取り手がぼんやりしちょってから!という言い分もあるでしょう。だけど、わたしは、きっちり受け取らないままなんとなしゆるやかにつながっていく、そういう態度を受容しているこの空間を、ああ、なんかとてもいいなあ、と思ったのです。いろんなものと、環境と、ちょっとずつ影響し合いながら、ゆるやかにプロセスを辿っていくこの機械さんたちがとてもいとおしい存在のように思えました。

ふだんはコミュニケーションの根幹はやっぱり受け取り手の態度にあるとかなんとか言ってますけど、もろに逆ですよね、これは。だって、聞く人がちゃんと聞いてないんですから。うーん。これがもし人の会話でこういうプロセスが行われていたら(話半分のまま他の人に伝えて影響及ぼしちゃう、ような、わからん。よう想像つかん、ごめんなさい。)相当気持ち悪いなって違和感覚えるんでしょうけど、やはりこれはアートの成せる業だよなあ。勘違いとか偶然から生まれる創造性。わたしの最近お気に入りの言葉でいうと「偶有性」というのかな。たまたま話半分に受け取ったパターンがすばらしく美しいイメージを生みだして、またそれが環境に作用して、ひとつの有機体としての振る舞いをみせる。なんかすてきだなー、ほんと。と、あの空間で小一時間、ナビの方とおしゃべりしながら考えたことでした。ありがとうございました。

f:id:sgl_0110:20120913222833j:plain

さあ、なにして遊ぼうか。

自分自身のこれからの身の振り方、というものを考えたときにもちろん教員という選択肢は至極まっとうで、というかまっとう云々とか議論する余地もないくらい、ほぼ100%そこに行き着くわけですが、完全にいま、気持ちはそこから逸れています。4月からほんまに教員する気あるの?って聞かれたら、うん、たぶん?って言っちゃうイメージ。実感が沸かないっていうのもあるかもしれないけど、わたしの人生そんなのでいいのかなあとうっすら、いや、かなり切実に考えるレベル。教員というお仕事はもちろんひじょうに重要で、素敵な、お仕事です。今まで何人もの先生に生徒の立場として、実習生の立場として、学生の立場としてお世話になりました。どの先生方もすごくすごく情熱を持って取り組んでおられて、ああこんな人になりたい、と胸を熱くした経験は数え切れません。現場の厳しさを知らないあまちゃんながら、将来こういうふうに子どもと関わりたい、こんな授業をしたいという理想も少なくとも持っています。でも、まだ、私にはやりたいことがまだまだまだまだあるんだ。先生という立場ではなく、もっとゆるやかに、自分の好きなことをしながら、周りの人と関わりながら暮らしていきたいなあ、と。

そう思ったきっかけは、いろいろな経験を掘り起こしてみるに大きくふたつ。ひとつは大学のゼミの先生の影響、もうひとつはサポートスタッフとしてお世話になっているYCAM(山口情報芸術センター)での経験かなあと思うのです。ゼミの先生は、もう、ゼミに入る前からものすごくお世話になっていて、講義でも勉強会でもゼミでも毎回びりびりと刺激を与えてくださって、ときにはお父さんのごとく私を励ましてくれるほんとうに大好きな人です。私が所属しているゼミは近代文学を扱ってて、作品をどう読むかってなことを毎回やんややんや言いながら追究していくわけですが、その学生の議論を見事な手腕でまとめはるのが、かっこよく言えばファシリティエートされるのが、うちの先生。みんなの意見をちょっとずつ引き出しながら、つなげて、比べて、違いを明らかにして、また違う方向へ運ばれて、深める。この議論の場で大切にされるのは「別に意見なんかまとまってなくてもいいんだよ、うまく言葉に出来なくてもいいんだよ」「どんな意見でもかならず受け止めるよ」このポリシーなんです。言っちゃえばね、こんな授業をしたいんです。中学校の教室でこんな授業をしたいなあ、なんて、理想なのです。いろーんな環境で育った子がいて、本を読むのが好きな子嫌いな子いろいろいて、価値観も多様で、でも絶対どんな意見も受け止めるよ、みんなで考えていこうかーって。そういう他者と同じ作品を読んで価値観をすり合わせるって貴重な体験だし、そこから得るものはすごく大きいと思う。だけど、学校教育の限界っていうのはきっとあって、そんなことばっかりはやってられない。と、考えたときに、ふらっときて、みんなで本を読んで、やんややんや言いあう場所があったらいいなあと思ったんです。いわゆる読書会っていうやつですけど、もっと気軽に考えていい。お菓子でも食べながら、ここがなんか腑に落ちんのっちゃね!もーこんなの意味わからん、や、たまらなく好き!ってそういうことを集まって話しながら、できれば、読み方を深めていけるような場所があればいいなあと。先生が開いておられる勉強会はまさにそんな感じで、おじゃましまーすって先生のご自宅に伺って、世間話して、じゃそろそろ作品読もうかってお茶飲みながらみんなでがやがや読んで、あーくたびれたごはんにしよ、って台所でごはん作って、食べて、世間話してさようなら。みたいな。

ふたつのめのYCAMではなにか、というとですね、情報芸術センターという名前からもなんとなくお察しできるとおり、メディアアートの展示やら製作やらそういうことをしているところです。とてもおもしろい、楽しい、大好きな空間です。ここでわたしは展示のナビゲーションをさせていただいたり、ワークショップやらギャラリーツアーのお手伝いをさせてもらっています。ここで思ったのはふたつ。ひとつは学校以外の場所で子どもたちと関わりたい、育てたいという思い。もうひとつは、ワークショップを自分で考えてやってみたいということ。ここに来る子どもたちが学校やおうちでどう過ごしているのかは知らないけども、とにかくここに来るとのびのび、すっごい笑顔で過ごしてるなあという印象があるんです。普段使わないようなパソコンや機械を触れたりっていうことはもちろんあるだろうけど、それ以上になにか抑圧から解放されたような、そんな感じでみんな何か作ったり遊んだりしてるわけです。思うに学校ではしんどさを感じているような子もいて、そういう子もここなら自分の強みを生かしてのびのびとしていられている。オリジナルのワークショップでは、最近メディアリテラシーだの情報モラルなんだの言ってますが、そのへんにかんして学校ではおよそ学べないようなことまで学べちゃう。余談ですが、このへんの知識って、いまからの子どもたちには当たり前に身に着けておかなきゃならないはずなのに、学校でそこまでやらない気がする。ほんま誰が担うんかな。まあそういう、このYCAMで出会った子どもたちの姿から、もっとこういう、学校やおうちから離れたコミュニティで過ごす経験て、教育という面においても、情緒という面においてもすごい大事なんじゃないかなと思ったわけです。ワークショップの話はちらっと出しましたが、メディアアートを扱っているところでありますので、メディアリテラシーに関するワークショップもあり、開催中の展示に関するワークショップもあり、ほんとうにさまざまなのですが、おもしろいのが、対象年齢が小学4年生以上なら誰でもいいよってしてるところ。だから、下手したら大人と子どもが一緒に混じってもの作ったり体を動かしたり考えたりいろいろしてるわけです。そういう意味でも教育的価値が高いなあと個人的には思っています。で、なんで小学4年生以上なら誰でもいいのってちょっと疑問に思いますよね。異年齢の人が同じワークショップに取り組むと、どうしても人によってはむつかしかったり、つまらなかったりしないだろうかと。そういう心配はあります。けれども私が参加させてもらったなかでは、そんな光景はあまり見たことがないんです。きっと参加者のみなさんにとっては、満足いくワークショップなんです。なんでだろうなあと思いつつ、あるときワークショップを作られているエデュケーターさんがこんなふうなことを仰っていました。「本質を見抜いて、芯をとらえて、ほんとうにおもしろいワークショップを作れば、大人も子供も関係ない」一言一句再生できませんが、要約するとこんな感じです。対象となるものの本質をとらえる、おもしろさを伝える。これってそのまんま授業づくりの本質やん、って。ものごとの本質を誰にでもわかりやすく、興味を持ってもらえるようにはたらきかける。あ、なーんだ。私のやりたいことってこれやん。

だらだらとふたつのことを書きました。お読みになって気づかれたかもしれませんが、明らかにこのふたつの事柄はリンクしているんです。ひとつに文学やメディアアートっていう、芸術をあつかっていること。ふたつめに、開かれた、とりわけ後者の場合は地域に根ざした場所であり、そこでいろーんな人を巻き込んで活動が行われているということ。できれば教育、子どもと関わりたいということ。

誰かがきて、また誰かがきて、まったりしながら、まー映画でも観ますか、って見て、その感想をゆるゆると語り合ってじゃあばいばいね。
こういう本を読んでみたいんやけど、誰か一緒に読んで話してくれる人おらんかねえ、あ、ちょうどいいところにきた、一緒にやろうや。

そういう場所があればいいなあ、つくりたいなあというのが今の率直な気持ちです。カフェ的なものか知りませんが、わたしにはそういうしゃれおつな雰囲気ではないので、どっちかっていうとタマリバというか、誰でも来れる部室っていうか、そういうところを、地域に根ざした形でやってみたいなあと思っているんです。そういえばわたしは小学生の頃から居残り(自主的な)が大好きな人間でした。お楽しみ会の準備と言っては残り、まだ仕事がありますなんて言いながら駄弁りたいがために生徒会室にだらだら残ったり、部室でどうでもいいような恋バナをしたり、そういうのの名残なのかなあと思ったりしています。それらは限られた人間しか出入りのないクローズドな空間ですが、興味を持った人がふらっと来れるような、ほんで定着したり、いなくなったり、そういうオープンな空間のなかで、人と人がアートを軸にしてつながれたらいいなあと思うんです。

かといって、わたしはアートの知識はぜんっぜんないし、文学にかんしてもほんと素人に毛が生えたレベルです。そんな人間がいまからどーやってそんなことするん、と思いますよね。わたしもそう思います。実際まわりにこういう活動をされている方がおられるんですが、みなさんそもそもアート方面の出身だったり、それなりの勉強をつまれていたり、アーティストさんとのつながりもある方ばかりで、ほんとにわたしはなんなんだ、なにも持ってないなにもできない頭もわるいときた。でも理想だけはあるときたこりゃ厄介である。

たいへん幸運なことに無茶なわたしのこの考え(ワークショップしたいんです!!!)を拾ってくださった方が地元山口と、もうひとつ大好きなまち津和野にいらっしゃいます。なんだかんだきっとこの春にわたしは教員になるんでしょうけれども、その前にやりたいことを少しでも試してみようと思います。ない脳みそ振り絞って、仲間を集めて実現したいと思います。そのときはみなさんどうぞ、よろしく。一緒に遊びましょう。